聖徳太子の「和を以て貴しとなす」を調べる為にインターネットで検索しました。
すると、
「何事も十分に議論を尽くして決めることが大切」という意味です。
など、似たような記事がたくさん出てきました。
本当の意味は、議論すること。そんな趣旨の記事がたくさん出てきます。
まるで、心臓を鷲掴みにされたかのような強い衝撃を受けました。
敗戦国として堪え難きを堪えているが、ここまで堪えねばならぬのか。
戦中、戦後の米国による日本人の言語空間への検閲と圧力は、
江藤淳氏の「閉ざされた言語空間」で詳細されています。
世界の歴史を見れば、欧米列強による植民地支配が500年以上も続き
有色人種は人と見られず、首に鎖をつけられて売買されていた時代がありました。
さて、話を戻しますが、「和を以て貴しとなす」の解釈記事が、
たくさん出回っていることに不自然さを感じます。
まるで、誰かから指示を受けて、少しづつ言葉を替えながら、マニュアルがあって
インターネット空間にばら撒いている感じ、を受けるのです。
当然、衝撃を受けているのは、誤った解釈がばら撒かれていると感じるからです。
日本は敗戦後、GHQによって、神道指令が発令され、天皇処刑、神社を廃止することが
画策されていました。
また、WGIP(War Guilt Information Program) 自虐史観を植え付け、日本精神を奪う為
3S(Sex,Sports,Screen)に溺れさせ、日本精神の高潔さを奪う、学校の教科書から
日本神話を消す。
日本人を神と切り離し、ゆるやかに絶滅させる計画が、現在進行形で行われています。
和を以て貴しとなす、の本意について考えみましょう。(以下は、コトバンクから抜粋)
まずは、一条、全文を読んで見ましょう。
十七条憲法一条
一(ひとつ)に曰(い)はく、和(やわらか)なるを以(もち)て貴(とうと)しとし、忤(さから)ふること無(な)きを宗(むね)とせよ。人(ひと)皆(みな)党(たむら)あれど、亦(また)達(さと)る者(ひと)少(すくな)し。是(ここ)を以て、或(あるい)は君(きみ)父(かぞ)に順(したが)はず、乍(また)隣里(さととなり)に違(たが)ふ。然(しか)れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事(こと)を論(あげつら)ふに諧(かな)ふときは、事理(こと)自(おの)づからに通(かよ)ひ、何事(なにごと)か成(な)らざらむ。
忤(さから)ふること無(な)きを宗(むね)とせよ
この解釈が、逆らう→反抗するな、と言った解釈をしているのですが、
「忤」の字を調べてみましょう。以下は、コトバンクからの抜粋です。
ゴ、さからうなり
午も吾も、ともに「御(ふせ)ぐ」と「(まも)る」意のある字で、
午は杵(きね)の形の呪器、吾は祝

の呪能を守るため、その器(

(さい))を堅く蓋する意象の字である。邪悪なものに拮抗し、
抵抗するところから、逆らう意となる。
りっしんべん(心を表す)と午(ふせぐ、まもる意)を合わせると
「心を守る」ことになります。
「忤(さから)ふること無(な)き」とは、邪悪なこと、もの、人から
心を守ることを忘れるな
これが私の解釈です。
繋げると
人と人との繋がりは、直線の支配構造ではなく、天上天下みな同じ、人は等しく
その関係は誰も支配せず、支配されない円形(和)を目指し、
邪悪なもの、考え、人などから、自分の心を守ることを忘れないように。
十七条憲法の一条の趣旨は、自分の心を真ん丸にして、
お互いの心を尊重し大切にすれば、異論があっても、
上下関係があっても、自然に良い解決案に自然に辿り着く。
だから、心を合わせ和することを、何よりも、一番に行いなさい。
議論しないさい、ではなく、心を合わせる、心を通わせることで
相通じ、素晴らしい方策が自然に見つかるし、良い案に自然に辿り着く。
真逆の解釈が地雷のように、ネット空間にばら撒かれていると感じるのは
錯覚でしょうか。
まるで、言い争いや、争いを生じさせるような、けしかけを感じます。
ここで、なぜか、西城秀樹さんの歌
「ブーメラン、ブーーーーメラン、ブーーーーメラン」の曲が頭を巡るのは、
なぜでしょうかね。
戦後日本人に埋め込まれた「自虐史観洗脳装置」WGIPとは
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