人の可能性

前職の時、週休二日で、一日は完全休暇とし、掃除、洗濯、買い物など。

もう一日は、中学二年生の自閉症の女の子の学校の送り迎えや遊び相手の

ボランティアをしていました。

私は、リストラで仕事を辞めてから、世界中の人とネットで話をしました。

オーストラリアの男性は、二人の子供の父親で、写真を見せてくれました。

私が、とっても可愛い!!と言うと、

彼は、「二人とも自閉症なんだ。ただ人と違うというだけで、世間はわかってくれない」と。

私がボランティアを担当した女の子のお母様も、毎回、泣いて仰っていました。

「この子は、将来、どうなってしまうのでしょう」

この先、この子が辛いこと、苦しいこと、堪えられないことがあって、もう駄目だと思う時

その時、私の顔も名前も忘れても、受けた愛を覚えていて、その愛が彼女をこの世界に

引き留める力となって欲しいと願いながら、彼女に接した。

彼女が成人式の振袖姿の写真を送ってくれた時は、本当に嬉しかった。

そして、今でも彼女は私に連絡をくれる。

私が鬱になった時、彼女は「無理するからだよ!」と怒ってくれた。

彼女には、私が鬱になった理由が、明らかに分っていた。

そう言ってくれた彼女の顔には、悔しさ、悲しさ、そんな表情をしていた。

私は、普段、怒鳴ったりしませんが、

彼女に怒鳴った駅員に対して、猛然と怒鳴り返した。

「あなた、何言ってるんですか!!!」

なぜなら、明らかに、彼女が普通の子ではないと、そうわかってからの怒号だったから。

人の可能性を外見でしか見れない人の何と多いことでしょう。

どうして、心を見ないのでしょう。

人は心眼を持っていながら、何故、使わない。

盲目で自閉症のコディが奏でるピアノ、歌声の清らかさよ。

心無き人には無い可能性を彼は持っている。

人の可能性を否定することは、何人(なんぴと)たりともあってはならぬことである。

「歌っている時の彼は、この世界から解放されている」

UnsplashErda Estremeraが撮影した写真